駅のはじまり、街のそれから

西宮駅 編

写真提供:京都鉄道博物館

各時代で阪神間の貨物輸送を支えた駅は、実は初詣のルーツだった?!

~旅客から貨物へ、駅の役割と使命の変遷~

目次

  1. 開業当時の町の概要
  2. 西宮神社参拝の玄関口
  3. 旅客から貨物へのシフト
  4. 駅移転
  5. 貨物隆盛の時代
  6. 貨物廃止後
  7. 語り手

ダイジェスト

1874(明治7)年
西ノ宮駅開業
1905(明治38)年
阪神電鉄開業
1920(大正9)年
阪急急行電鉄(現阪急)が開業
1924(大正13)年
駅舎移転
1927(昭和2)年
日本麦酒鉱泉株式会社西宮工場建設
1986(昭和61)年
貨物の取扱を廃止
2007(平成19)年
駅名を西ノ宮から西宮へと改称

もともと鉄道利用の需要が少なかった西宮

日本三大酒処の一つに数えられる「灘五郷」の、今津郷と西宮郷を擁する西宮。住吉と同様に海側で予定されていた鉄道敷設計画は、「汽車の煙が酒を腐らせる」という酒造家の反対によって現在の山側へ変更された。

大正8年ごろの今津郷、西宮郷と官線鉄道の位置関係。
大正8年ごろの今津郷、西宮郷と官線鉄道の位置関係。
「灘五郷酒造一班(大正8年)」国立国会図書館デジタルコレクション

1874(明治7)年5月11日の幹線鉄道開通と同時に開業した西ノ宮駅は、翌月に住吉駅と神崎駅が開業するまで阪神間唯一の駅だった。しかし、開業当初の駅利用者数は、せいぜい100人程度。地元住民は、今津郷や西宮郷での酒造りに携わる人や、香櫨園の浜で地引網漁を行う漁師が多く、鉄道の利用者が少なかったと考えられる。

また、海側には、全国に約3500社を数える戎神社の総本社である西宮神社が鎮座。鎌倉時代頃に門前で興った市街地で、さまざまな商いが行われていた。つまり、西宮では、酒造、漁業、門前町の商い等々で地域経済が成り立っており、酒の運搬も蔵に近い港からの海運がメインだったことなどにより、産業面でも鉄道の需要は低かったようだ。

初代西ノ宮駅(年代不明)
初代西ノ宮駅(年代不明)
写真提供:京都鉄道博物館

初詣のルーツ? 西宮神社参拝への玄関口

そんな地に開業した西ノ宮駅の歴史を辿ろうとする時、一つのポイントとなるのが西宮神社の存在だ。駅の西側には、京と西国を結ぶ陸の動脈である西国街道が延びており、西宮神社の門前町へと繋がっていた。近隣の人々は、この街道を歩いて西宮神社へ参拝し、門前町で飲食や買物を楽しんでいたのである。

しかし、鉄道が通って駅ができると、大阪や神戸など地元以外の地域からも手軽に参拝が可能に。参拝客を取り込む狙いがあったかどうかは定かではないが、後に阪神電鉄が開業するまで西ノ宮駅は西宮神社最寄りの玄関口としての役割を担うようになる。

今や正月の風物詩となっている、元日に神社仏閣へ参拝する初詣の慣習。これは、鉄道会社の集客競争によって広まったとされ、神奈川県の川崎大師がその発祥だといわれる。最寄り駅は、日本初の鉄道開業とあわせて新橋~横浜間に置かれた川崎駅だ。

関西における発祥は西宮神社で、阪神電鉄のPRによって広まったという。しかし、阪神電鉄の開業前は、西ノ宮駅が最寄り駅。そのルーツは西ノ宮駅だったと考えるのも、あながち間違いではないと思うのだ。

大正14(1925)年4月1日、西宮町が西宮市となった日を祝う人々で賑わう西宮神社
大正14(1925)年4月1日、西宮町が西宮市となった日を祝う人々で賑わう西宮神社。
写真提供:にしのみやオープンデータサイト

後発私鉄が開業。旅客から貨物へとシフトチェンジ

1894(明治27)年に三ノ宮~西ノ宮間、1896(明治29)年3月に西ノ宮~大阪間が複線化。1926(大正15)年には神戸~大阪間が複々線化され、官線鉄道の輸送力は大幅に上昇した。

一方、1905(明治38)年に阪神電鉄、1920(大正9)年に阪急急行電鉄(現阪急)が開業すると、利便性などの理由から乗客はそちらへ流れ、西ノ宮駅の旅客扱いが減少。貨物扱い主体の駅へとシフトチェンジしてゆく。

この頃には、今津郷や西宮郷で造られる酒関連の物資輸送に鉄道貨物も使われるようになり、酒や酒粕、原料米、酒樽用材などの貨物取扱も行われた。「汽車の煙で酒が腐る」と鉄道敷設に反対した酒造家が、鉄道で酒を運ぶようになったのだ。時代の流れとは、こういうものなのだろう。

天井川の夙川対策によって駅の場所を移転

酒絡みのエピソードに加え、六甲山地を源流とする近隣の河川との関係性にも少し触れておこう。隣駅の住吉駅同様に西ノ宮駅でも、駅の西を流れる河川、夙川による影響を受けていた。

夙川は、上流から運ばれた砂礫の堆積などにより、川床や堤防が周囲の地面より高くなる天井川だ。西ノ宮駅を出発した列車は、夙川の橋にかけて急な勾配を上らなければならなかった。勾配を上り切れずに駅まで戻ったり、途中で止まってしまった列車を駅員や荷役の作業員が手押ししたりすることも少なくなかったという。

こうした天井川対策として行われたのが、線路の嵩上げだった。それに伴い駅も高くする必要があったため、1924(大正13)年4月に既存の駅から西へ約200mの場所で新しく駅舎が建てられた。現在のJR西宮駅がある場所だ。

移転後の西ノ宮駅
移転後の西ノ宮駅。
写真提供:にしのみやオープンデータサイト

軍需の貨物輸送を担う拠点としての存在感

 そして、大正から昭和に時代が移ると、第二次世界大戦の軍事物資輸送の拠点として、貨物駅の性格と存在感が一層強まっていく。

現在の武庫川団地一帯は、航空機工場をはじめとする軍需工場地帯だった。その従業員や資材を輸送するために阪神電鉄武庫川線が敷設され、1943(昭和18)年11月に武庫川~洲先間が開業。翌1944(昭和19)年8月には武庫川~武庫大橋間が延伸開業し、省線の甲子園口駅経由で西ノ宮駅へ至る路線も整備される。この路線における貨物の取扱は、省線の列車が直接乗り入れて担っていた。

その後、終戦を経て1958(昭和33)年に西ノ宮~洲先間の貨物線が休止。1970(昭和45)年には、同線が廃止された。

民需における貨物輸送も担い、役割と使命を全う

昭和の西ノ宮駅における貨物取扱の隆盛は、軍需に限ったことではない。民需においても、貨物取扱駅として大きな役割を果たしていた。

昭和初頭、日本麦酒鉱泉株式会社が西ノ宮駅東側の津門大塚町に大規模な西宮工場を建設、清涼飲料水の製造を開始した。後の合併で大日本麦酒西宮工場へ、さらにアサヒビール西宮工場へと変遷。西ノ宮駅からは貨物専用線が敷かれ、鉄道貨物が輸送を担った。

昭和30年代のアサヒビール西宮工場
昭和30年代のアサヒビール西宮工場。
写真提供:にしのみやオープンデータサイト

また、さらに東側で昭和30年代に操業を開始した住友セメント西宮サービスステーションにも、貨物専用線を敷設延伸。高度経済成長期のセメント需要を、大量輸送で支えたのである。

その後、国鉄分割民営化を翌年に控えた1986(昭和61)年に貨物の取扱を廃止。終わりゆく昭和の時代とともに、西ノ宮駅の長い歴史における一つの節目を迎えた。さらに平成、阪神・淡路大震災からの復興を経て、2007(平成19)年に西ノ宮から西宮へと改称。駅名の表記は変わっても、鉄道開業当時からの最古参駅として歴史を刻み続けている。

西宮駅近影
西宮駅近影

西宮駅の語り手

鉄道駅研究会 講師
戸島正 氏

後発私鉄の開業以降、旅客から貨物取扱主体の駅にシフトし役割と使命を果たした典型的な例だと思います。軍需と民需両面における貨物輸送で、省線と国鉄時代における貨物隆盛の一翼を担った重要な駅です。