駅のはじまり、街のそれから

尼崎駅 編

写真提供:京都鉄道博物館

市街地から離れた田園地帯で開発と無縁だった駅が、なぜ寂れず生き残ったのか?

~150年の歴史の中で、鉄道と駅が担った役割の変遷~

目次

  1. 鉄道敷設以前
  2. 鉄道開業
  3. 川辺馬車鉄道開業~摂津鉄道
  4. 阪鶴鉄道
  5. キリンビール工場
  6. 東西線開通、再開発
  7. 語り手

ダイジェスト

1874(明治7)年
神崎停車場(現・尼崎駅)開業
1895(明治28)年
阪鶴鉄道設立
1907(明治40)年
国鉄福知山線誕生
1918(大正7)年
麒麟麦酒(現キリンビール)神崎工場操業開始
1949(昭和24)年
神崎駅から尼崎駅へと改称
1997(平成9)年
東西線開業。4面8線同時発着が可能に

古くから繁栄と発展を重ねた流通や交通の要衝、尼崎

弥生時代から先進的な文化をもった人々が暮らし、豊かな歴史を重ねてきた尼崎。奈良時代以降、海岸線の土地は京都や奈良の貴族や寺社などの荘園として開発され、都との流通の場として繁栄した。

中世にかけては海陸交通の要衝となり、瀬戸内海経由で西国からのさまざまな物資が往来する港町として発展。大覚寺や本興寺を中心とした、中世日本有数の自治都市も形成された。

近世には、江戸幕府の西国支配において最重要拠点である大坂の西側を守る要として、尼崎城が築城。阪神間随一の城下町が形成され、その周辺は時代とともに発展を遂げていった。

明治維新により尼崎城は廃城となったが、2019年に再建され尼崎のシンボルとして中心市街地で威容を誇っている。

寛文十年頃尼崎城下絵図 寛文10年(1670)頃(加地泰雄氏文書)
中央上部にある四角い敷地が尼崎城
写真提供:あまがさきアーカイブズ

場所は市街地から離れた田園地帯。駅名も尼崎ではなく神崎

そのほかにも、明治維新の動きが尼崎にもたらされた。明治新政府による近代化施策の一つ、鉄道の敷設だ。新橋~横浜間に次ぐ国内2番目の官設鉄道路線として、神戸~大阪間が1874(明治7)年に開通。神戸、三ノ宮、住吉、西宮、大阪とともに、尼崎にも駅(停車場)が置かれた。

駅の場所は現在のJR尼崎駅と同じだが、駅名は尼崎ではなく神崎。もともとの尼崎という地名は、現在の阪神尼崎駅から大物駅にかけての南側あたり、港町や城下町として栄えた市街地を指していた。そこから北へ数㎞離れた神崎の地に置かれた駅の周辺は、一面に田圃が広がるのどかな田園地帯だったのだ。

多くの人の乗降が見込める市街地ではなく、田圃の中に造られた線路と駅。その理由としては、神戸~大阪間を最短距離で結ぶためのルート設定に加え、鉄道が山のものか海のものかも分からない黎明期においては、敷設に反対する地元住民とのトラブルを避けるための意味合いも大きかった。

初代神崎駅(年代不明)
初代神崎駅(年代不明)
写真提供:京都鉄道博物館

東西の官線と南北の民線をつなぐジャンクション

しかし駅の周りは田圃以外に何もなかったわけではない。駅の西側には、尼崎と伊丹を結ぶ街道があった。とはいえ、旧城下町の市街地や川辺郡役所がある伊丹町から遠く、決して便利ではない立地だ。駅の開業を契機にした開発とも、無縁のままだった。

そんな駅の周辺で、明治20年代に新しい動きが出始める。1891(明治24)年7月に長洲~大物間で川辺馬車鉄道が開業し、同年9月には官線と平面交差する形で長洲~伊丹間が開業。翌年12月に摂津鉄道となり動力が馬から蒸気機関へ変更後、さらに翌年の1893(明治26)年12月に尼ヶ崎~池田間が開業した。

ただし、馬車鉄道時代の平面交差は認められず、神崎駅西側の長洲駅を幹線の南北に2ヶ所設置。旅客列車はそれぞれ折り返し運転で、乗客は一度降りてホームを移動し乗り換えていた。そんな中、貨物に関しては平面交差の線路を人力で押して通過させることが認められていたようだ。

この南北の分断により、馬車鉄道に端を発し尼ヶ崎と伊丹方面を結んだ新路線は、官線の神崎駅を通じて尼ヶ崎や伊丹方面から大阪や神戸に接続する路線へと変わってゆくこととなる。

阪鶴鉄道の直通乗り入れ後、福知山線の起点駅に

摂津鉄道の時刻表は官線への乗り換えを考慮し、神崎駅の官線が発着する時間に合わせて設定。摂津鉄道各駅から官線各駅への直通切符も発行されていた。

1895(明治28)年には、大阪と舞鶴を結ぶ計画で阪鶴鉄道が設立。2年後の1897(明治30)年、摂津鉄道は阪鶴鉄道に合併され、同年12月に宝塚まで延伸開業した。翌1898(明治31)年6月には、官線への連絡線を敷設する形で塚口~官線神崎間が開業。官線が上、阪鶴鉄道が下を通る立体交差は、当時としては画期的だった。これにより、同年9月から官線へ乗り入れ、大阪までの直通運行がスタートする。

その後、3度の延伸を経て1899(明治32)7月に福知山南口まで延伸開業。1904(明治37)には福知山まで延伸開業した。そして、1907(明治40)年の鉄道国有法による国有化で阪鶴鉄道は解散、国鉄福知山線となった。

また、南側へ延びていた尼ヶ崎駅への路線は、福知山線の支線に格下げ。1981(昭和56)年に旅客営業が廃止された後、1984(昭和59)年に廃線を迎えた。

ビール工場の登場で発揮された貨物扱いのポテンシャル

官設鉄道の開業から30年以上を経て明治後期になると、鉄道は便利な交通機関として人々の間に浸透。鉄道敷設への反対運動などもはや過去の話となり、市街地に沿って鉄道を走らせる私鉄が台頭してきた。1905(明治38)年、阪神電気鉄道が三宮~出入橋間での営業運転を開始し、尼崎駅が市街地の中心で開業した。

そんな時代になっても、神崎駅周辺には依然として田圃が広がっていた。しかし、大正時代に入ると、開発とは無縁だった駅の周辺で大きな変化が起こる。1918(大正7)年4月、駅北側の広大な敷地で麒麟麦酒(現キリンビール)神崎工場が操業を開始。第一次世界大戦による好景気で急増したビール需要に対応するための、横浜山手工場に次ぐ第二工場だった。

明治時代は、政府による富国強兵実現のための殖産興業施策で軍事、鉄道、鉱山、通信、造船、紡績、製糸等が隆盛。運搬は水運が主流で港湾整備や埋め立てが進み、海沿いに工場が造られた。一方、その後に興った食料品、自動車、ビールなどの産業は、工場に適した場所を先に取られていたため、内陸で大量輸送が可能な場所、つまり鉄道駅の近くに工場が建てられた。現在に例えれば、高速道路のIC付近というイメージだろうか。1891(明治24)年に操業開始の大阪麦酒会社吹田村醸造所(現アサヒビール吹田工場)や、1927(昭和2)年操業開始の同西宮工場(2012年8月に製造終了)も同様だ。

また、神崎駅の南北に敷かれた貨物線の設計も興味深い。北側と南側で、貨物線のタイプが違うのだ。北側はビール専用の貨物線で、長い線路が平行して3本ほどあるのみ。ビール単品の貨物輸送であるため、長編成の貨車を入れるシンプルな設計になっている。一方の南側は一般貨物線で、単品ではなく多種多様な荷物を扱うため長短の線路が混在。専用と一般では、貨物の扱いそのものが大きく異なっていた。

1923(大正12)年9月の関東大震災で横浜山手工場が壊滅的な被害を受けた際、神崎工場が増え続けるビール需要に対応。神崎駅の専用貨物線も、それを支えたのだ。

左・尼崎市街全図(大正7年、1918)、右・尼崎市街全図(昭和10年、1935頃)。
麒麟麦酒(現キリンビール)神崎工場稼働直前から約20年で神崎駅周辺の様相が大きく変化したことが見て取れる。(赤囲みは編集部にて記載)
写真提供:左・あまがさきアーカイブズ右・あまがさきアーカイブズ

鉄道駅と一体化した新しいまちづくりのモデルケース

ビール工場の登場以降、神崎駅があった小田村の人口は急激に増加。時代が昭和に入るとビール工場の他にもさまざまな分野の工場が駅周辺に建てられ、それらを取り囲むように住宅地が形成されていく。もちろん、周辺工場への専用線も設けられ、多くの貨物取扱量を誇った。

また、第二次世界大戦の戦禍を免れたことで、戦後に商店や市場が集中して市街化が急激に進行。戦前からの老朽化住宅の密集、道路の未整備、公共施設の不足、地価高騰による宅地の細分化など、時代が進むに連れさまざまな問題が積み重なっていった。そんな中、1949(昭和24)年に神崎駅から尼崎駅へと改称。尼崎の新しい玄関口として、歩みを始める。

復興尼崎市/日本商工交通図(昭和25年、1950)より、尼崎駅周辺を拡大。
尼崎駅への改称直後の駅周辺地図。数々の工場が駅周辺に進出している。
写真提供:あまがさきアーカイブズ

昭和50年代になると、鉄道駅と一体化した新しいまちづくりの動きが全国各地で推進。同時に、運輸政策審議会では関西圏における鉄道の将来設計として、東西線、おおさか東線、なにわ筋線の整備が答申されていた。その中でも東西線が最初に着手され、駅や線路の大規模な改良工事を経て1997(平成9)年3月に竣工・開業。ホームは3面6線から4面8線に増加し、全ホームでの同時発着が可能になった。

その前年の1996(平成8)年には、キリンビール尼崎工場が操業を終え三田市の神戸工場へ移転。この広大な跡地を利用した大規模な駅前再開発事業と、新線整備に伴う駅設備の改良により、尼崎駅とその周辺は大きく変貌を遂げていった。こうした尼崎駅の事例は、“鉄道駅と一体化した新しいまちづくり”における全国的なモデルケースだといっても過言ではない。

JR尼崎駅周辺近影
JR尼崎駅周辺近影

尼崎駅の語り手

鉄道駅研究会 講師
戸島正 氏

尼崎の市街地から離れ、辺り一面が田圃の場所にポツンと建てられた神崎駅。一見、地味な印象かもしれませんが、官設の幹線駅として非常に重要な拠点でした。長らく大規模な周辺開発が行われなかった分、駅そのものが劇的に変容していった様子がよく分かります。他の駅とは異なる成り立ちで歴史を重ねたという点で、とても興味深い駅です。

鉄道駅研究会 講師 戸島正氏