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駅宝サーチ
尼崎駅編
昔も今も変わらず愛される、
尼崎のシンボル的存在。
高度経済成長期以降の一大工業都市としてのイメージも、今は昔の尼崎。近年では、アクセス至便で住みやすい街として注目を集めている。そんな尼崎に、かつて立派な城と城下町があった。廃城から145年の時を経て再建された城は、昔も今も変わらない尼崎の人々の愛と誇りを背負って立っている。
海陸の交通と流通の要衝だった尼崎
尼崎の地名が歴史上において初めて登場するのは、平安時代末期から鎌倉時代初期。現在の阪神・尼崎駅から大物駅にかけての南側一帯が、尼崎と呼ばれる地域だった。
鎌倉・室町期の書物には「海士崎」「海人崎」「海崎」などとも記されており、漁民や海民が生活する岬の土地というのが地名の由来と考えられる。
その後、中世にかけて港町として発展。西国から都へ運ぶ物資が瀬戸内海を通じて往来し、特に京都や奈良の社寺造営に使われる材木の中継港として大いに栄えた。
また、西国街道や中国街道などの陸路も通り、水陸両面における交通と流通の要衝でもあった。
江戸幕府が重要視した、大坂の西を守る拠点
江戸時代に入ると、大坂が幕府の西国支配における最重要拠点に。その西に位置する尼崎は、大坂の西側を守る要としての役割を担っていく。大坂夏の陣後の1617(元和3)年、幕府は譜代大名の戸田氏鉄を尼崎に配置し、城を築かせた。尼崎城の誕生である。
3重の堀と4層の天守を備え、規模は約300m四方で甲子園球場約3.5個分の広さを誇った。一国一城令により、諸国の城を取り壊す政策が進められていた時代。尼崎藩5万石の居城としては過大な城を、新たに築かせたのだ。
藩の領地も広大で、現在の尼崎や伊丹の市域から神戸の須磨までの海岸地帯を包括。西宮や兵庫津などの経済力をも有する、豊かな藩領が与えられていた。
こうしたことは、大坂の守備拠点として、幕府が尼崎を重要視していた証左といえる。
明治の廃城令まで、阪神間唯一の城下町として繁栄
築城に伴って城下のまちづくりも進められ、8ヶ町から形成される城下町を整備。ピーク時には約2万の人々が暮らしを営み、阪神間における唯一の城下町として繁栄した。
また、城下町とともに寺町の整備も行い、城下に散在していた24の寺院を一画に集約。城下町の中心から距離をおいて寺院の影響力を弱めたり、強固な塀に囲まれた寺院を配置して城を防御する役割を持たせたりすることが目的だったと考えられる。今なお寺町界隈には11の寺院が残っており、往時の面影を色濃く留めている。
こうした経緯で生まれた、尼崎の城と城下町。初代藩主の戸田氏鉄から、青山氏、(櫻井)松平氏まで、3氏12人の譜代大名が藩主を務め、250年にわたる歴史を重ねた。
その後、時代が進み明治に入ると、明治政府が廃藩置県や廃城令の施策を推進。尼崎もその対象となって藩も城も取り壊され、一つの歴史が幕を閉じた。
地元の人々の篤志と浄財により145年ぶりに再建
明治維新の動きとともに城が消滅して以降、尼崎の町では都市化が急速に進行。かつての城下町は、すっかり姿を変えてしまうが、尼崎の人々の心に刻まれた城の記憶が消えることはなかった。
幾度となく起こった再建を望む声や動きも、資金の調達や用地の確保などさまざまな障壁に阻まれ難航。しかし、2015(平成27)年、大手家電量販店の創業者である安保詮氏の篤志により、再建への動きが一気に加速する。安保氏は、創業地の尼崎への恩返しとして、約12億円の私費を投じて天守を建設し、市に寄贈することを申し出たのだ。
これをきっかけに再建の機運が高まり、「みんなのお城」としての思想が広く市民にも波及。一口城主寄付や一枚瓦寄付などで寄せられた金額は、約2億円にも上るという。尼崎の人々が心に秘めていた、城の記憶と城に対する誇りや想い。その熱量が、ひしひしと伝わってくるようだ。
ちなみに尼崎城は、江戸時代にも民衆の力で再建された歴史をもっている。火災によって焼失した本丸御殿の再建を、領民が献金や資材寄付によって支援。江戸でも平成でも、尼崎城は「みんなのお城」だったのである。
そして、2019(平成31)年3月29日、明治の廃城から約145年ぶりに再建を果たした尼崎城が開城。以来5年、凛々しい天守の姿は、尼崎を象徴する風景に定着。地元の人々が「みんなのお城」として親しむ、心の拠りどころとなっている。
施設情報
尼崎城
06-6480-5646
尼崎市北城内27
9:00~17:00(16:30最終入城)
休城日:月曜(祝日の場合は翌日)・12月29日~1月2日
入城料:一般・学生500円、小中高生250円、未就学児無料
尼っ子の想いが詰まった
「みんなのお城」
尼崎城のかかりの者
ダコさん
かかりの者として尼崎城にお仕えするようになってから、数多くのお客様をお迎えしてきました。尼崎の新しい観光名所というイメージで捉えられがちですが、実は他所から観光に来られる方よりも圧倒的に地元の方が多いんですよ。リピーターになってくださるのも、地元の方がほとんど。大人も子どもも、フラッと遊びに行くような感覚で親しんでいただいているようです。
そうそう、つい先日には、こんな方が来られました。尼崎にあるご実家へ寄られた、60歳くらいの男性です。城内をご案内している時、「他所で尼崎出身だと言うと、ネガティブなイメージの色眼鏡で見られて嫌な感じだった。でも、今日ここへ来てみて、自分はこんな立派なお城があった尼崎のまちに住んでいたことを誇りに感じる。凄く大きな自信がもてた」と、涙ながらにお話してくださり、こちらも感動で泣きそうになりました。
こうした実体験を通じて感じるのは、地元の皆さんがお城の復活を喜んでくださっていること。「うちらのお城」「みんなのお城」として、誇りをもっておられることです。そんな喜びや誇りを、これからもずっと末永く繋いでいってほしいと願っています。もう、廃城令が出されることはないのですから(笑)。